すなわち、過去の自分語りである。あるいは、中学時代、僕がひときわアップルに陶酔していたころの回想録である。

思い入れがあるので長くなると思う。読み飛ばしていただいて構わない。

入学当初、中学での僕のニックネームは「まっちゃん」であった。苗字がマから始まる人の定番とも言えるこの呼び名の保持者は、学年に3名いた。僕が「ちゃん」を「くん」に変えてくれよ、と周囲に伝えたのは、紛らわしいからだけではなく、人と全く同じであることを由としなかった性格も影響しているかもしれない。こうして僕は「まっくん=Macん」となった。

そう、僕はMacが好きだった。きっかけが特にあるわけではない。我が家に最初にやってきた「パーソナルコンピュータ」が Performa 550 だった。Windows 95 はまだなかった。マウスで操作するパソコンといえばMacだった。最初はそれだけのことだ。

しかし、世の中にWindowsが浸透していく中で、流れに反してMacを使い続けていることが自身のアイデンティティの一部を形成するのに時間はかからなかった。

(それは世間のほかのMacユーザとて同じことだっただろう。Mac党We Love Macなどといったサイトに、当時の空気の一端を見ることができる。中学生の分際が、身の程知らずにMac党の議論に口を挟んでいたことは言うまでもない。)

いつしか僕は、Macの先進性、オリジナリティ、使いやすさをもっと広めたいと思うようになった。とある友人が好きなゲームを広めようと団体(?)を作っているのにも触発され、僕は部活でもなんでもない非公式団体『Macintosh愛好会』を設立すると宣言した。略称はそのままMAK。MacんによるMacのためのMAKであった。

中学の同級生の皆にはひとつ謝っておかねばならない。この頃、熱心に周囲に勧誘する僕の姿を見て、何か面白いことでも始まるのかと思われたのか、想像以上の会員が集まったのである。その数実に50名。生徒総数360名の学校にしては相当な数である。図書館を放課後借り切ることに成功し、総会を開くと喧伝し、一体何が始まるのかと物見に来た人を含めて20余名ほど集めたはいいが、僕はただMacのすばらしさを講義しようとするだけであった。しかもみんなが静かにならないから逆切れするという始末。集まった人々が去って言ったのは言うまでもない。黒歴史のひとつである。

結局、50名の名簿だけを抱え、活動としては僕が一人で毎月、MAK会報を印刷して各教室に張って回った。もっとも先生方の一部には面白がられた。国語のT先生にはアップルの本を数多く薦められ、担任のY先生とはMacトークをしたり、いらなくなったMacPower誌をもらったりなどしていた。それはそれで楽しかった。類まれな中学生活であったことは胸を張ろうと思う。(かつてのアップルのスローガンが “Think Different” であったことにも思いを巡らせつつ。)

僕がこうして変な中学生生活を送っていた頃は、ちょうどアップルが大転換を迎えていた時期と重なる。上に書いた話は、ちょうど「暗黒時代」と呼ばれる時期からスティーブ・ジョブズのアップルへの復帰と時期を同じくする。アップルの歴史を語る本は多いが、どの本を読んでもすべてがドラマに満ちていた。2人のスティーブ(ウォズニアックとジョブズ)の友情と悪戯。オーウェルの小説をモチーフとしたCM (“1984”) のセンス。ジョブズがジョン・スカリーをアップルに誘った台詞* のドラマ性。その後の会社の命運をめぐっての駆け引き。暗黒時代。買収の危機。宿敵マイクロソフトからの資金援助。ジョブズの復帰、そこからの快進撃。

*:「このまま一生、砂糖水を売りつづけるのか? 世界を変えてみたくはないか?」

高校の同級生の会話を思い出す。あるクラスメートは三国志にはまり、ある者は古代ローマの歴史を語り、またある者は加藤鷹の生き様を理想として語っていた。少年少女は皆、何かにヒロイズムを感じながら育つものである。僕にとっては、中国の武将でもローマの英雄でもAV男優でもなく、スティーブ・ウォズニアックが、ジョン・スカリーが、ジャン=ルイ・ガセーが、そしてスティーブ・ジョブズこそが、Hero(ヒーロー)達だった。

そして昨日、アップルはスティーブの早すぎる逝去を発表した。ウェブサイトが、”Steve Jobs 1955–2011″ の文字が添えられた顔写真で差し替えられた。研究室ホームページ係の癖で、Webページのソースコードを見ていると、何かが胸にこみ上げるような文字列を見つけた。スティーブの顔写真のファイル名は、” t_hero “ となっていた。

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